四国霊場88カ所 ほぼ半分歩き遍路

  2008212日〜315

                     林 

                

 212日徳島へ着いて、その日のうちに1番札所霊山寺へ。お寺の前で菅笠、金剛杖、白衣など遍路グッズを買ってから霊山寺へ参拝。翌日2番極楽寺から本格的に歩き始めた。315日結願の88番大窪寺まで33日間、高野山まで含めると実に34日間の長旅であった。

 お遍路の格好をすることについては、四国に到着するまで躊躇いがあった。何となく恥ずかしい気持ちが拭えない。ところが1番の霊山寺に着くまでに、たくさんの遍路姿の人たちとすれ違ううちに、恥ずかしいと思う気持ちは消えていった。「同行二人」の信心はいっこうに芽生えて来ないのだが、これを身にまとえば歩ける、正直そんな気がしてきた。事実、遍路姿をしているために受けた恩恵は計り知れない。道々受けた数々の親切、道を訊ねると行き先を言う前に相手が分かってくれ、教えてくれた。 

 お遍路さんと呼ばれて私のほかは影

 遍路道といってもいろいろあるが、歩きのための遍路道は88カ所札所間で約1200キロと言われている。1番霊山寺から88番大窪寺まで、積雪のため通行不能だった60番横峰寺をのぞいて歩き通したが、実際歩いた距離はそのほぼ半分くらいだったろうか。途中、土佐市の青龍寺あたりで足まめがだんだんひどくなり、とうとうダウン。足摺岬の手前土佐清水の病院でまめの治療を受け、民宿で丸2日も動けなかった。歩き始めてから2週間経った頃である。ネットやガイド本では1週間から10日くらい経つころに足まめが出来るから要注意とあったので、まめの出来る頃は過ぎたと油断していたら、4日遅れでまめを作ってしまった。情けない話である。足摺から松山まで、バスや電車を使いながら少しずつ歩行距離をのばしていったが、足まめが直っても、歩くと足が痛くてたまらない。靴を買い換えようと入った松山の靴屋さんで、インソールの買い換えを勧められた。1890円。その後、これが同じ靴かとおもうほど、歩きやすくなった。歩き遍路は120キロ、30キロなかには40キロも歩く人がいると聞いているが、足まめが治ってからも私は30キロ以上はとても歩けなかった。毎日長距離を歩き続けるせいか、足指が火照り夜なかなか寝付けなくて弱った。

 遍路といってもいろいろだ。歩き遍路は少数派で年間3000人くらい、観光バスによる団体参拝・マイカー・自転車やバイクなど合計すると年間数十万人とも言われているが、圧倒的に多いのは観光バスによる団体参拝である。遍路というのは春の季語となっていることから分かるように、その数は春が一番多い。その次は秋。秋遍路という季語もある。私の歩き始めたのは2月半ば、春は名のみの頃であったが、背中にザックを背負っていることもあって、薄着で歩いていても少しも寒くなかった。ダウンジャケットなどは休憩のときに羽織るくらいで、歩くときはザックの上に括りつけていた。それも宅急便で途中他の荷物と一緒に送り返してしまったほどだ。

 ひとり歩きは孤独かと言うとそんなことはないし、山道をひとりで歩いていても怖くはなかった。同行二人、遍路道を歩いているという安心感があった。四国の不思議さかもしれない。落葉を踏んで山道をひとりで歩くときのあの充足感は、東京で山歩きをしている時と似ているようでどこか違う。

 

 日脚伸ぶことを頼りに歩いている

 1日限りの同行者なら何人もいた。同じ宿に泊まって、翌日同じ道を歩く人、歩いている途中で言葉を交わし、後になり先になりして歩いた人など様々だ。中には3日間同じ宿に泊まってしまった人もいた。3日目の日など、すれ違いざま「まさか、今日も同じ宿ではないでしょうね」と言ったら、宿に着いてみればしっかり浴衣姿でその人が食堂に現れたりした。また、自転車でまわっている青年とも松山あたりから行く先々ですれ違った。彼は秋田から敦賀までをフェリーで、敦賀からは琵琶湖、京・大阪、淡路島をへて四国へ。四国をまわる間は「お遍路」なのだと言う。「お遍路」のあとは、中国・九州から屋久島、石垣島、沖縄本島から最後は台湾を目指すそうだ。「こころの病」から退職、立ち直るための旅だと言っていた。他にも志度寺から最後の大窪寺まで歩いた静岡県三島のSさん、大窪寺からお礼参りの1番霊山寺まで一緒だった九州からの男性、二人ともガンの手術のあとだと言っていた。九州の男性は、大腸ガンで抗ガン剤の投与をはじめる前に、「先生、ちょっと待って」と言ってお遍路にやって来たのだそうだ。すれ違って明日は別々の道をゆく私にこんな話を何気なくしてくれることにも、こころが沁みた。それにしても、私自身は何のためにお遍路に来たのだろうか。その問いに対する答えがすぐに見付からないことに、私は戸惑う。

 田渕俊一さんの事を書こう。221日、歩き始めて10日目だった。室戸岬を過ぎて、25番津照寺、26番金剛頂寺を過ぎ、高知県のV字になっている海岸線を折り返してしばらく行った室戸市羽根町の市営住宅入り口から中山峠の遍路道がはじまる。市営住宅の前を通りかかったら、大柄で品の良さそうな小父さんに「お遍路さん、うちでお茶を飲んでいかない」と誘われた。昼を少し過ぎたころだったので、お言葉に甘えて寄せてもらうことにした。目の前の新しいバリアフリーの部屋。新婚家庭のように何もかも新しくキチンと片づいている。70平米はありそうだ。お茶だけでなく、お昼も食べなさいと近くのスーパーで買ってきたらしいお弁当も分けてくれた。話しているうちに田渕さんがこれから歩く予定の中山峠12キロを10年前からたった一人で整備し、出来上がった後も毎日のように草を刈ったり落葉を掃いたり石をどけたりしていることを知った。そして歩き遍路に声をかけては何人もお接待で泊めていることも。「どう、泊まっていかないかい」と言われて、喜んで泊めていただくことにした。話がきまって、お昼を食べてから二人で中山峠を途中まで登ってみた。さきほどの話のとおり、峠道はきれいに整備されている。自然石をペーブメントのように敷いて、落葉も掃かれている。田渕さんは鹿児島でロケットを作る技師だったのだが、奥さまが病気になられて故郷に戻ってこられた。奥さまが亡くなられて今年で13回忌になるそうだが、亡くなられて数年は酒浸りのすさんだ生活だった。それがあるきっかけで中山峠の遍路道の整備を思い立たれたと言う。翌日はすっかり寝坊した私に卵焼き、サラダ、みそ汁の朝食を作っていただき、海岸沿いを3キロほど送っていただいてお別れした。改めて、遍路って何だろうと思う。

 田渕さんの事に加えて、遍路道の道標(みちしるべ)についても書きたくなった。いろいろあるが、「へんろみち」の石碑は江戸時代以降慶長年間から慶応年間まであり、現存するものは文化的な遺産としての価値はあっても、これに頼って歩くことは出来ない。「四国のみち」として建設省と環境庁が建てている木製の標識もあるが、これは必ずしも遍路のための道標ではない。なんと言っても遍路にとって役に立つし有難いのは「へんろみち保存協力会」の人たちがボランティアで建てている標識とシール。どちらも白地に赤で、菅笠を被り杖を持った歩き遍路がデザイン化されている。遠くからでも見えるし、これが見えると正しい道を歩いているのだと安心する。標識は重要な分かれ道や遍路道の始点に、シールは途中の道々の電柱やガードレールなどに貼られている。これと歩き遍路にとってのバイブルである『四国遍路ひとり歩き同行二人』の地図編が何より頼りになる。歩き始めると「へんろ道」の標識にそって歩けば間違いない。地図はよほどのことがないと途中では見ないし、見なくても大丈夫。それ程、「へんろ道」の標識は信頼度が高い。と、ここまではいいのだが、この標識が四国4県の県民気質、へんろに対する思い入れによって微妙に、あるいは極端に違うということは、行ってみなければ分からなかった。

 宿に入り、洗濯し風呂に入り夕食を食べ、メモと荷物の整理をすると、もうすることがない。テレビは大概の宿にはあるが、チャンネルが分からないし番組表もないので、7時のNHKニュースと天気予報くらいしか見るものはない。その頃に、母に携帯メールをする。すると30分もしないうちに返事が来る。母は今年90歳。去年夏ごろ孫に教わりながらメールを覚えた。最初は平仮名ばかりだったのに、私のお遍路出発以来毎日のようにメールのやり取りをするせいか、めきめき上達して「にっこりマーク」を入れてきたりもするようになった。足まめを作って動けず、弱気になっていたときに、母がと励ましてくれたことでずいぶん勇気づけられた。

 遍路から帰ってきてもう1ヶ月近くなるが、夢の中に四国の何でもない街かどや風景が出てくる。目が覚めてあれは何処だったかしばらく考えていると、思い出される。33日、88カ所を巡るという区切られた旅だったからこそ、四国は私の中に鮮烈に定着しているのかもしれない。

                日程                        212日〜315                          費用(事前購入含む)           320000

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