キューバ最高峰
ピコ・トウルキノ1972m登頂
期 間:2011年2月19日〜3月3日 13日間  費用約50万円」
目 的:チェ・ゲバラのコマンダシア見学とキューバ最高峰ピコ・トラウキ登頂
参加者:日比野、高橋以上2名当会 他8名
催行会社 アルパイン(株)現地山岳ガイド付きツアー

山域山名 キューバ東部シエラ・マエストラ山脈「トゥルキノ山とクーバ峰」

日程 
2/19〔土〕
成田17:10発トロント(泊) 
2/20〔日〕革命広場・ハバナ(泊) 
2/21〔月〕ハバナ世界遺産旧市街(空路)モンカダ兵営・サンティアゴ・デ・クーバ(泊)    
2/22〔火〕世界遺産ロカ城(バス)マエストラ山脈玄関口のサントドミンゴ山麓ロッジ泊)  
2/23〔水〕コマンダンシア往復ハイクサントドミンゴ(山麓ロッジ泊)   
2/24〔木〕国立公園登山道入口パルマ山アグアダ・デ・ホアキンの山小屋(泊)     
2/25〔金〕山小屋ピコ・トウルキノ1972mピコ・クーバ1872m山小屋下山(泊)   2/26〔土〕登山道入口に下山山麓ロッジガルシア公園ラス・ツナス(泊)  
2/27〔日〕トリニダー世界遺産市街観光トリニダー(泊) 
2/28〔月〕
シエンフエゴス世界遺産サンタクララのチェ・ゲバラ霊廟ハバナ(泊  
3/01〔火〕
コヒマル(老人と海)ヘミングウエー博物館午後ハバナトロント(泊) 
3/02-3〔木〕
成田15:20着

【記 録】

2/22 革命発祥の地モンカダ見学(日 記)       

「教育と医療は無料」という国をこの目で見てみたいという目的は今回の短い日程の中では達成されませんでしたが、ガイドの話を聞いたり、本や資料を読んだりする中で知りえたことをレポートします。

@ 教育  キューバでは、義務教育期間中(小学校6年、中学校3年)のみならず、高校、大学、社会人教育にいたるまで教材を含めた教育費がすべて無料。もろもろの事情でドロップアウトした子供たちに対しても、しっかりとした矯正カリキュラムが組まれています。義務教育は9年間ですが、職業に就くためには高校までを卒業する必要があり、そのために学科単位に分けられた夜間学校が数多く存在しています。日本と違うのは大学に進学することを希望する人たちが集まる普通高校が街中に存在せず、農村部にあること、つまり畑の中にぽつんとある全寮制高校で3年間にわたって規律や協調性を鍛えられる。また収穫期には授業の一環として農作業に従事することになっている。これはキューバの革命の父ホセ・マルティが唱えた教育と労働の融合を試みたもので、収穫期の労働力不足を補う意味もあり、中学在学中も数週間の参加が義務付けられています。

A 医療  キューバ革命によって施行された政策の中でも国際的に高い評価を受けているのが 医療の無料化です。都市部から農村部にいたるまで、網の目のように整備された医療施設のほとんどは24時間サービスとなっており、入院しない場合の薬代を除いて、診察料、治療費、手術費、入院費のすべてが無料です。そればかりか歯の治療や美容整形も無料、薬代も驚くほど安く設定されている(注射用のペニシリンが10円、アスピリンは50錠で5円程度)。またそれらを販売する薬局も24時間営業しています。また医師の数はキューバ全体で約5万5千人おり、これは国民200人あたりに一人の割合となり世界でもトップクラス。そのほか7万3千人の看護師と約38万人の保健師が地域と密着して勤務しています。行き届いた医療サービスの結果、革命以前に流行していた多くの小児病や風土病を根絶することに成功し、乳児死亡率も千人当たり5人未満(メキシコ35人、アルゼンチン30人、ボリビア84人、ペルー75人、米国ニューヨーク州は10人。「キューバ経済白書」より)と一桁台にとどまっています。日本は1歳未満の乳児死亡率がほぼ2.5人です。

B 介護  高齢社会が危惧されていますが、高齢者介護施設なども無料なので、日本のような介護問題は起きていません。

C 近年  ワクチンなどの分野で数々の特効薬の開発に成功し、ヨーロッパや南米から治療に訪れる患者も増加し、美容整形や避妊手術、がんの手術などを安価で受けることができる「医療ツアー」も内外の注目を集めています。



2/23〔水〕(晴)ゲバラやカストロの司令塔コマンダンシアへ往復ハイク(高 記)

前日2人部屋のシャワー付きのロッジに入った。このサントドミンゴ山麓の標高は650m。今日は足慣らしにコマンダンシア(革命軍司令部)へ往復ハイクに出る。キューバのフカロという木はピンクのスイカズラ風の大きな花をつけソメイヨシノのようにきれい。車で登山口(標高980m)に行く。体操をしてから8時に西方の平坦な道に入る。キューバ全行程の通訳(ルイス氏58歳・20歳でソビエト留学・カストロと来日)と正確な日本語を話すガイドアシスタント(ノエル君33歳・4年前筑波大学院留学)と自然保護官(オマール氏)が加わる。ノエル君の通訳を介してオマール氏が鳥や樹木等の説明をする。木に寄生するランが目につく。国鳥のトコロロを見る。「トコロロロロ・・」と美しいさえずりから名前がつき、国旗と同じ赤白青の三色をもつ自由を象徴する美しい鳥だ。頭部から背中にかけ青色で白い尾羽に腹が赤い。この後も数種類の鳥を何回も見る。

樹林帯1.5kmを30分掛けて下ってカストロの革命に協力したメディナ氏(3年前に逝去)の庭先(標高750m)で休む。チェ・ゲバラやカストロ兄弟らはメキシコからサンティアゴ・デ・クーバへの上陸に失敗しこのシエラ山域に隠れ革命の指揮を執った。谷筋を挟んで向かいにシエラ山脈の緑濃い森が連なる。国花のマリポサの説明もある。蝶々のような純白の芳香を放つ花は秋に咲き、株を見るとラン科かユリ科らしい。香水を取るコロニアというランは満開だ。ブーゲンビリアやクレマチスの鮮やかな色彩が目を射る。山腹の開けた場所で畑があり孔雀やネコがいる。

9:15チェ・ゲバラ(医師)が主に歯科治療を行った椰子の葉で葺かれた小屋の傍で休む。そこから直ぐ広々とした尾根に出る。ヘリポートにも使われている台地上の地形であるが周囲は広大なシエラ山脈に囲まれる深い森である。陽射しは強いが谷を亘る風はすがすがしい。9:30革命軍の司令室は資料室となっていて先ずは見学。山岳立体パノラマが作成されていて革命軍が通った道や診療所などが分かるようになっている。無線機や酸素吸入器やカストロ愛用のタイプライターなどの展示がある。9:35若くして戦死したイョ・ロドリゲス戦士の墓にバラの花が咲く。ここに葬って欲しいという願いだったという。ロバがいる。人が生活している。少しの上り下りの後で10:00ゲバラやカストロが潜んでラジオ放送で同志を募っていたという急斜面に建つ小屋に入る(標高1050m)。小屋に逃げ口がいくつもあり興味深かった。小屋の先の南側を捲くように10:15革命指令部資料室に戻る。日 さんは「ゲバラやカストロが革命前夜に夢を語り合った山の中の司令本部への往復ハイキングを楽しみにしていた」と熱く語る。

11:35登山口に下山する。12:30昼食をロッジで摂る。ロッジは勿論国営で労働者は笑顔で親切だし部屋に綺麗なハイビスカスの花を飾ってくれベッドメイキングはしっかりしている。献立に工夫の無いのは残念だ。女性陣は私なら同じ食材でもっと美味しいものを作れるのにと言い合う。

医療と教育が無料で受けられるこの国は意欲さえあれば能力を開花させいろんな夢をかなえることが可能である。勿論競争も大学入学試験もある。私からすると子供3人の大学教育費だけで2千万円を超え、これからは老後の医療費を心配しているからこれらの点は羨ましい限りである。キューバは多くの医師をアフリカやボリビア・ベネズエラなどに送る医療支援を行っていて、次々と南米に誕生した革新政権と連帯している。カナダやスペイン等と合弁会社が出来ているがアメリカ合衆国の経済封鎖が主たる要因で機械化工業化が極端に遅れている。食料や電気製品の配給制度が残り基本的生存権が保障されている。ポーターは農作業に従事していてそれで幸せだという。しかしガイドから聞くと重労働のため農業人口は減少するばかりだと言う。車窓から見ても農業の機械化は進まず日本の戦前なみだった。やみ経済・二重経済が進行する社会主義の中で生活意欲・生産意欲をどう上げていくのか難しさを感じもする。この国は何処へ向かうのか。でも資本主義の大波をもろに被る時が来るだろうが私はこの小さな社会主義国に期待と希望を寄せる。また何時の日かキューバを訪れることが出来たらと思う。

2/24〔木〕(晴)国立公園登山道入口からアグアダ・デ・ホアキンの山小屋へ(高 記)
トルコ石のような青いカリブ海を臨める山というピコ・トゥルキノ山へ向かう。登山に不要の物をスーツケースに入れ鍵を掛けロッジに置く。飲料水1.5L・雨具・防寒具・行動食・医薬品などは自分のザックに入れ背負うが、6キロくらいでとても軽い。その他のシュラフ(カバー)・エアマット・明日の水や着替え等はダッフルバッグに入れ鍵を掛けポーターにホアキン小屋まで運んで貰う。ポーター1人が2人分の荷15Kgを背負う契約で日本人登山者10人(女7人+男3人)に6人のポーターがいた。昼食のハムサンドとジュースもポーターが運ぶ。リーダーが準備した2回分の朝食のα米やインスタント味噌汁などの共同食材はロバが運ぶ。ロバは我々とは別の村人の利用するルートで登り谷底の集落を経由し沢を横切り所要時間は短いが険しい道だという。今日は小屋まで8kmを歩く。今日の自然保護官はアスミル氏である。

8時10分昨日と同じ登山口から真東に向かう砂利の急坂に入る。夜雨は降らなかったはずだが草木にはたっぷり露が下り海からの水蒸気が豊かな自然の森を育んでいるのだろう。この道にもランなど寄生植物が多い。まもなく平坦な道となり右へ下る分岐が出てくる。谷底に集落が見える。こんな山奥の村に原住民の集落があるのかと思いきやキューバにはコロンブスが上陸する以前の先住民は全てスペインなどに虐殺され1人も残っていないというから驚く。現キューバ人は白人と奴隷とその混血から形成されている。

村への分岐を右に分け真っ直ぐ進み緩やかな登りを10分も行くと、昨日のコマンダンシアの山が右に見えてくる。9時5分1150mの道標を過ぎ、1m近い高さの大きな赤茶色のアリ塚を見る。ちょっと突っつくとアリがわらわら出てくるのが珍しい。紺碧の空に明日登るピコ・トゥルキノ山が姿を現す。まだまだ遠くにある。9時20分正面に三角形のパルマ山1260mが聳え、この山を越すのが今日の大仕事。大型のランの花が歩きを楽しませてくれる。鳥のさえずりも楽しい。国鳥やハチドリを見る。コンドルに似た鶏も捕るというカビランという大きな鳥が空を舞う。原則40分歩いて10分休むのがツアリーダーの方針だ。

10時10分北面が開けた場所で20分近く休憩。遠く深く山並みが連なる。1960年代フローラハリケーンに襲われた時の樹木を薙ぎ倒すその被害は大きく、それからこの山にマツを植樹しているという表示板がある。キューバはハリケーン直撃が度重なり被害は甚大となるので高い鉄塔などはその前に解体して被害を抑えるという。すぐに3kmの表示を過ぎ、11時10分標高1200mに到り、青空に霞むカリブ海が山間に見える。急傾斜の登りが続くが息が上がる前に平坦になり下りになるので助かる。

11時50分に5km表示のところで昼食。日差しが強いので木陰は嬉しいご馳走だ。このコースはラプラタトレイルと呼ばれているらしい。12時55分6km表示を過ぎ、13時に「ふくろうの森」に下る。13時半に7kmを通過し宝石のようなターコイズブルーの実がいっぱい草叢に覗くが食べられないらしい。厳しい登りをこなすと14時30分斜面に建つ小屋に到着。明日の道はもっと大変ですとガイドが言う。食堂管理棟と登山者宿泊棟がある。トイレの手前で植林用の苗木4-5種類を育てている。ツアリーダーに紅茶などを振る舞われながら穏かな時間を過ごす。心づくしの夕食はステーキ風牛肉・長粒米黒豆御飯(コングリ)・トマトレタスサラダ・トマト味スープ・里芋でけっこう食べる事ができた。太陽電池による灯りは20時消灯。星が素晴らしく魅せられる。北緯20度だから冬の大三角形が天頂近くに見える。21時まで星を観てからベッドに潜る。1時に起きたら小屋の陰に隠れていた北斗七星が北の空に昇りそのでっかい柄杓に感激する。外トイレ迄15m下るのだが星明りが怖さを消してくれる。深山の静かさが好ましい。キューバの山にいるのだなあと想う。

【日 さんの感想:林の中の登山道はしっかり整備されていて歩きやすいが、かなりのアップダウンがあり、私は軽い心臓弁膜症があるので登りになるとペースを落として付いて行く。山小屋までの距離は8キロで、1キロごとに標識がついている。日本の山とそう変わりなく小鳥の鳴き声とさまざまな草花や木々が生い茂り、好天に恵まれて快適な山歩きであった。途中数回の休憩と昼食休憩(ハムサンドイッチとオレンジジュース)を取り、午後2時半ごろ山小屋へ着いた。夕食までの3時間はポーターが運んでくれた寝袋で寝床を作ったり、写真を撮ったりして過ごした。キューバビール(350ML)は、日本と違い、下界の町で買う値段と同じ「1ペソ=約100円」だった。食後に広場に出て空を見上げると満天の星空で、「あれがオリオン座、向こうがスバル、うっすらと天の川、カシオペアに北極星、夜中になれば北斗七星が北に昇ってくる」などと解説をきく。翌日は朝が早いので8時に就寝となった。】

2/25〔金〕(晴時々曇り) キューバ最高峰ピコ・トゥルキノ1972m登山(日 記)

 7日目は、いよいよキューバの最高峰(ピコ・トゥルキノ1972m)の登山日だ。朝5時30分に起床し6時30分朝食。日本からの添乗員が気をきかせてくれアルファ米のご飯と味噌汁を用意してくれた。

7時に登山開始となった。天気は快晴。最初から急登につぐ急登で息が切れそうになるが、涼しい風がなんとも心地よい。数回のアップダウンが続き、最後の急登をへて、10時24分ホセ・マルティ(1895年第二次独立戦争指導者・5月戦死)の銅像が建つ山頂に着いた。ここで参加者とガイド、ポーター全員の記念撮影をした。そして第2の高峰・ピコ・クーバ(1872m)へ2時間かけて先へ行く組(実際は休憩20分を入れ110分で往復できた。ピコ・クーバではガスが晴れず青いカリブ海を臨む事は叶わなかったという)とすぐ下山する組と別行動になった。私は翌日のことを考え下山組(参加者3人とガイド2人)になった。

11時に下山を開始し、途中昼食休憩を含む数回の休憩を取りながら、スローペースでアップダウンを繰り返し下った。後40分位で山小屋に着くという地点でスペインから来たという若いカップルと会った。薄着で靴もスニーカーしか履いてなく「あんな服装で大丈夫かな?」と思ったが3時間後には頂上を極めて下ってきた。われわれ下山組は14時10分に山小屋に着いた。ピコ・クーバ組は15時40分に戻って来た。

2/26〔土〕(晴時々曇り) 下山(日 記)

8日目は、7時30分に下山をスタートさせた。この日も天気は上々で1時間に1回の休憩を取りながらスローペースで下った。現地ガイド氏はキューバ


































独特の小鳥たちや花々や樹木の説明をしてくれたがなかなか覚え切れなかった。ジープが待つ峠まであと3キロの地点でカリブ海のさざ波が見えた。最後の登りを越えた休憩所でポーターが運んでくれた「マンダリナ(オレンジの一種)とパン、ジュース」が配られ、最後の休憩を取った。この日は、ドイツとイングランドから来たという2つのパーティー(10数人)に会った。カタコト英語が通じ、うれしかった。12時15分全員無事でジープが待つ峠に下山した。

キュウバの歴史により革命軍勝利   

1492 コロンブスが第一次航海で上陸    16c 先住民シボネ族やタイノ族など全滅

1511 D.ベラスケスに征服されスペイン領となる   16-17c 湾や海岸沿いに要塞建造

1762 英領となる    1763 英にフロリダを交換譲渡して再びスペイン領となる

1868 第1次独立戦争     1895-8 2次独立戦争       1898 米西戦争

1902 米国軍政下でスペインから独立       1952 バチスタの米国傀儡政権始まる  

1953/7/26 革命軍モンカダ兵営襲撃失敗     1956 カストロらキューバ再上陸

1958 サンタクララで政府軍攻撃成功しバチスタ国外へ1959/1/1 キューバ共和国成立

1962 キューバ危機と米国による経済封鎖       1967 チェ・ゲバラがボリビアで戦死  

2004 米ドルの流通禁止          2011グアンタナモ湾に米軍基地が居座り続ける



モロ要塞からハバナ市街
街中の馬車
大聖堂
砂糖工場の写真です
子供達と
老人ホーム
小学校
レストランで
司令部内の備品
司令部の子や
カストロの隠れ家
ガイドのホルヘと
山頂での記念写真
世界遺産のトリニダー
床屋と美容院
ゲバラ廟
専門学校を眺める
ハバナのホテル
ピコ山頂へ左の尾根を登る



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